ボルダリングに挑戦するあなたの背中をポンと押したい。

私がボルダリングを続けられる魅力とその考察

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ボルダリングの魅力って何なんだろう?

言葉にすれば壊れそうで…

ボルダリングを初めてもう8年ほどになります。途中いろいろあって数年間、ボルダリングから遠ざかっている時もあったのですが、やっぱりボルダリングの世界に戻ってきました。

 

ボルダリングの世界に戻ってきて、つくづく感じたのはボルダリングって不思議なスポーツだなぁ…ってことです。個人スポーツのようでチームスポーツっぽいところもあったり、人とのつながりを感じたり、孤独感を意識したり…思えばこのブログのPOZNEN(ぽつねん)っていう名前もボルダリング中、壁に張り付いているときに感じた、ぽつんとした孤独感から名付けたんでした。

 

こういった不思議な魅力を持つボルダリングというスポーツですが、一体どういったところに魅力を感じるのかっていうところを文字に起こそうと思います。文字に起こすと意味を持ってしまい、解釈の幅が狭まってしまうんじゃないか?ボルダリングの魅力を十分に伝えられないのではないか?とこれまで記事に起こすのを意識的に避けてきたのですが、あえて言葉に起こしたいと思います。

 

ジム課題は会話のようなもの

ボルダリングをジムで長いことやっていると段々と課題を設定した人(セッターといいます)をなんとなく推測することができるようになります。「このホールドの距離感は誰々さんだな」とか「こういうムーブ設定はあの人っぽいなぁ」っていうふうにです。

 

プロのセッターの課題にしても、常連さんが作った課題にしろ、その人が作った課題ってその人の味や好みが出るんですよね。その課題に挑戦しているときに「あぁ、この課題のセッターは、ここであのムーブをさせたいんだな」って、まるでその場にいない課題を作った人と会話をしてるような気分になります。転職でホームジムから去ってしまった常連さんの課題を登るとき、「〇〇さん、2級にしちゃ、この核心は辛すぎるよ〜」ってその場にいないのにまるでその人とその課題を共有しているような気持ちになります。

 

良い課題ってのはそういったセッターの声をホールドで表現したものなんだって思います。「ほら、ここをランジしてみてよ!」「ここはカチ持ちで耐えてよ!」って物言わぬホールドたちがセッターの代弁者となってクライマーに語りかけて来るんです。

 

こういう意図が見えるところにボルダリングってセッターとの会話をしているかのような気分になるんです。セッターの意図を汲み、それに応えるか、飛ばすか、壊すか。まるで会話です。

 

外岩課題は映画のようなもの

人の手で作り上げられれたクライミングジムの課題と違って外岩は自然の形そのままです。その自然のままの岩をクライマーが「ここから、あそこまで行くぞ!」と宣言して実際に登ってみてグレードをつけます。

 

自然が作り出した外岩の課題に人の手が入り込む余地はありません。でもその課題をトライすることで初めてその課題を登った人の生き方、考え方を追体験することができます。「わざわざこんな難しいルートを選ばなくてもいいのに」。「この岩の頂上に立ちたいのなら、ほかの面のほうがよっぽど登りやすいのに」。外岩の課題に挑戦しているとき、そういった感情をいだきます。

 

初めてこのルートで登った人はどんな気持ちだったんだろう。このホールドをどれだけ辛い思いで保持したんだろうって思いを馳せることができます。何もこんなところからあそこまで行かなくても…って思うんですけど、それがその人が見つけた登り方なんだって生き方なんだって、芸術作品に似た映画を見ているような気持ちになります。

 

自然のままの岩の中にストーリーを見出すというルート開拓者はそういった創造性が必要なのでしょう。有名な外岩の課題は映画や絵画のように、その課題に挑戦することでなにか気づきを与えるものなのかもしれません。

 

ボルダリングの魅力とは?

ボルダリングというスポーツが市民権を得て、はや数年になります。私がボルダリングを始めたころは全国にクライミングジムは200店舗もありませんでしたし、友人に「ボルダリングが趣味です」って言っても「なにそれ?」って言われるほどでした。

 

それがわずか数年でクライミングジムが500を超え、ボルダリングはずいぶん身近な存在になりました。「ボルダリングに挑戦しよう!」っていう雑誌やサイトをよく見るようになりました。

 

「ボルダリングの魅力は何か?」という問いに対する答えの一般解に「達成感」っていうものがあります。確かに何ヶ月も挑戦した末に完登したときの喜びは忘れられないものがあります。私にも忘れられない課題がいくつかあります。

 

でも「達成感」って言葉で済ますことができないほどボルダリングには深い魅力があるんだと感じます。それはきっと「対話と理解」なんだと思います。クライミングジムの課題ではセッターとの、外岩の課題では開拓者との対話を課題をトライすることで実現することができるんだと思うんです。そして完登したときの達成感の中には、ようやくこの課題を作った人の気持ちがわかったぞ!っていう感情もあるんだと思います。

 

「対話と理解」という側面を考えると、その課題を完登したときに感じる充実感は、さっきまでできなかったことができた!という肉体的な成長を実感することの他に、ルートセッターや開拓者と同じ気持ちになれた!わかった!っていう新しいことを知ったという精神的な成長を知らず知らずのうちに感じ取っているんじゃないかって思うんです。

 

私自身、こんな哲学めいたことを考えながら登ることはしませんが、ボルダリングから離れられないのは、こういう壁を登るっていう行為以上にセッターや開拓者の会話を楽しんでるのかもしれません。もちろん、同じ課題に挑戦するクライマーとの会話も楽しんでいますが、その会話の本質はセッターや開拓者の意図は何なんだろう?どういったことをさせたいんだろう?っていう推理にも似たなんだって信じています。

 

ボルダリングの魅力はゴールホールドをマッチした時やトップアウトした時の達成感も確かに大きな1つのものです。でも同時に私はどうしても考えを巡らせてしまうんです。その課題を作った人に対する「いやぁ、なかなか面白いことをさせてくれるじゃないか」という思いを。

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